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泥壁、批評「台湾」

瀰漫著跳舞的時空《跳舞的空間 泥壁》

演出:Ryuseioh Ryu 龍
時間:2014/11/18 19:30
地點:寶藏巖國際藝術村

文 樊香君(專案評論人)

寶藏巖の山坡の上で,空氣はすこし冷たいが,濃い黄色の照明は空間を暖かくしてくれる。かすかに都市の騒音を聞こえるが、差事劇團の山城劇場は都市の騒ぎを離れる小舟のように観衆を旅させる。《跳舞的空間 泥壁》はぼろぼろな衣服を身に纏っている一人の男が遠い斜面所からふらついて歩いてくるから始まる。びっこをひいたりして歩いてきてて立ち止まる。RyuseiohRyu龍である。彼の存在は、私を全身、ブラックボックスあるいは額縁舞台が容易に経験させてくれない本当の幻影の中に、踊りの空間の中に、投げ込んだ。

しかし、それが幸いか不幸なのかは分からないが、公演の前に私は、龍の身体がいわゆる健康、あるいは正常な身体とは異なっていることをすでに知っていた。この前提は私が感情を投入することをしばしば邪魔し、公演の後にも、自分の感動を検証するように促しました。

照明が空間を染めると、奇異にねじ曲がっている身体、その論理の韻律と、時々観衆を視る眼差し、時々どの方向を見ているのかは分からない、それでも意向の明確な眼差しとが目に映る。その上、軽やかで、音質の壊れかけている音楽は(アコーデオンを主要な楽器としているような感じの音)は、奇怪でシュルな感覚をさらに増やしている。彼は一体何を見たのか、と私がずっと頭の中で自問し続けた。

龍の身体のリズムははいくつの特殊な状態、浮遊しているような無重力状態、あるいは全力の緊張/押し開けるような状態を繰り返した。時には、彼はその場で立ちとまり、静かに、それでも力を振り絞っているように両腕でひとつの円を描く。かれは両手を咲いている花のように開く瞬間、根茎が地面を貫いて、その抹消を伸びだすように努力すると同じように、かれの神経と関節は、最もかすかで、遥かに遠いようである;また時には、彼は無重力状態になり、木材の舞台の上で、あるいは真ん中に掘り出された穴のへりを彷徨う。彷徨うというよりは、駆け廻り、揺れ動いて急速に移動しているが、しかし、彼の目の中から、躊躇しているようなものは何一つ読み取れない。彼はただ行動している、努力して身体と重力を配置し、倒れてもまた立ち上がる。彼は倒れて跳びあがる、または急速に行動した後には度々、まるで変身して、海底に潜った竜のように、身をひるがえして、空気を吐き出し、少しもごまかしのない音と息を出したりする。多分、正にこのような危険で限界を試すような行動によって、身体との抵抗と調和と、身体を透している息、音、汗、筋肉、皮膚、唾液が、空間全体を浸潤し、生き生きとしている踊りの意志を満たしている。

実は、このようの浮遊の、無重力の、緊張を以て開こうとする状態は、現代のダンスでは珍しい表現では決してない、イスラエルの有名なバットシェバ舞踊団は、ダンサーの訓練で強調される「GAGA(ガガ)」という動きのメソッドを――すなわち身体内および身体外の「浮遊」を動きの基本設定とさえして作品の編集・創造している。そこで、身体はあらゆる可能性を絶えず発展し、外向的に形式的な言語を追求することだけではなく、内向的にもなぜ動いているかという動機を追求するが、しかし、後者はしばしば却ってまた別の形式的な言語になることがある。そのことを考えると、龍は(名詞の)「舞踊」(「舞蹈」)の空間ではなくて、 (動詞の)「踊り」(「跳舞」)の空間」というタイトルにしたのは、意義深いことだと思われる。なぜなら、龍の「踊り」は、固定した形式的な言語はないように見えても、それはただ自分のさわやかな夢の中のうわ言ではなく、一連の行動の過程だからである。彼がたびたび観衆に向けている視線、その息、そして観衆に向って伸ばしている、やせた弱々しい両腕を通しての龍のその場の存在、―― 浮遊によって現われる、緊張のあるバランスと、力一杯の解放的な動きと、辺で揺さ振って、倒れて再び立ち上がるというような、彼が強烈に観衆に向かって展開する、その独特な身体と時空間の感覚 ―― 筋肉が緊張するために、身体の構造が位置をずらしているときに生じる状況で、それでもバランスを必死に保つ、協調的に浮遊している状態で尽くしている注意力と精神力は、龍自身の動きの感覚の空間に、時空間が次第に拡大されたり、遅くなったりするような幻覚を生じさせ、そしてその意向と精神力は踊りの空間をさらに広げてその空間を形成する。

ここで、「幸いか不幸であるかは分からないが、公演する前、私はすでに龍の身体がいわゆる健康な、あるいは正常な身体とは違うと知っていた」という文を上に書いたのを思い出して、はっと悟った。あのような前提によって誘発された感動は、それは多分意識する必要があっても、それによって感受性と感動の細胞を制約し抑る必要はまったくないと。龍の存在は、かれが私の目の前に展開している身体感覚と時空間感覚に、美しくでもある、比喩的なものも含んでいる彼の身体の特異な状況には、私は入り込めないが、だから何なの?結局は、どの人であっても他者の時空間と身体感覚に入り込むことはできない、すべての人はすべての人にとって特異であり、理性的な世界の範疇と分類が私たちのためにある共同的な標準の仮象を作り出しているだけである。

この山城劇場の中で、龍の身体を媒質として、特異性が増幅したと同時に、特異性を感じ取る可能性も増幅された。彼の微細にわたって極大化したその世界の時空間の感覚は、観衆である私たちに、隙間の中から、彼の視線が暗示している、私たちが永遠に到着することのできない世界をちらっと見えるようにさせてくれたが、一頻りの異次元の激動した旅の後に、龍はよろよろと斜面に向かって、はいているように、歩いているように、帰っていった。彼の世界も同時に締めくくられ、再び彼の身体の中に戻り込んだ。

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